2017年 12月 02日 ( 1 )

信仰

永作師僧より 勧進のお願い

院主より、勧進のお願いを致します。

このたび、赤不動明王院では、ご本尊さまである赤不動明王尊の尊剣、
並び護摩壇法具を謹製させて頂く運びとなりました。

不動尊剣は刃渡り80cm、全長1mを越える豪剣であります。

皆様の御厚意を賜われば幸いであります。
これはお願いであり、決して強制ではございません。

ご寄進くださったみなさま方へは、宝剣にて特別祈祷をさせて頂く所存でございます。

金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


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【赤不動明王院】 勧進のお願い

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信仰とは、誰にも左右される事無く自由に持ち続けられる心の栄養である。
その昔、武術家で生きる事を夢観て単身アメリカに渡り、様々な経験を積みました。
帰国後は高名な先生方に指導を賜わり、前途を嘱望された時代。

日本武道館に菊の紋章を胸受けて参内した頃、その後の数奇な運命を知る由も無かった。
その出来事は、突然に訪れた《両親の死》

その後、出家。
しかし、在家から出家した者に風は冷たかった。

阻害と無視。
しかし、武術で培った精神はやわでは無い。
そんな小さな事では微動打にもしない。

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そんな時、本物の師僧に巡り会えたのが分岐点であった。
師僧は、様々な秘法を惜しげも無く御教授下さった。

正に、信仰は心の栄養と確信したのはこの頃である。
修行が厳しいのは当たり前。
嫌なら辞める自由は、誰にでもある。

しかし一旦、覚えて身につける喜びを知る時、苦は苦で無くなるのである。

武術を動の修行とすれば、僧の修行は静である。
どちらの修行も己れが選びし道、貫き導き出すしか無い。

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修行に楽は無し。
そして歳を重ね振り返れば、自分の道は自分で切り開く事に氣づくであろう。

御本尊様の前に座して読経する時、生まれて来たしあわせに氣づく今日この頃です。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝

自分自身の修行経験を振り返って感じることがあります。
それはこれまで社会人として働いてきた時の「成果」とは、目に見えるものであり、達成感があり、第三者からの評価を受けることが暮らし向きに響く(査定など)という大変わかりやすいものだったという事です。

師僧は自らの武道家としての生き方の中から、「武道は動の修行」という言葉を出されましたが、私にとっては「会社員生活は動の修行」でした。
それに引き換え、本当に僧の修行は静です。
ここまでやったから大丈夫、次へ行ける。といった客観的な指標はあってないようなものです。

他人からの承認や賞賛を求め、顔色を窺っているようでは何一つ身につきません。

暗闇の中をひたすら歩くか、その中で座して自分を見つめ続けるか、貧しい中でいかに生き抜いていくように自分を信じて励まし続けるか。
徹底的に自分が「個」であることを意識します。

しかしそれは孤独なのではなく、諦観への道と言えます。

信仰を持っていることを人に知られたくない。
人からバカにされた。
という事を悩んでいらっしゃる方は少なくありません。

馬鹿にしたり嗤ったりする人は、自分が何か信仰に関わることで心に傷を負っているのかもしれません。
誰かを嘲笑したり、わかった風で決めつけたりすることで、心の傷を誤魔化そうとしていることもあり得ます。

信仰とは、自分の頭で何も考えなくなることではありません。
むしろ、ある視点から世の中を、自分の心の中を、見つめ続け、考え続ける道に入ったということです。

心の栄養を蓄えたとき、自分の言葉で思う事を語れるようになることでしょう。

今日もありがとうございます

感謝合掌
後藤慈優



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by masumi-inari | 2017-12-02 06:01 | 赤不動明王院便り