2017年 10月 29日 ( 1 )

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10月16日より、これまで1日3000回だったところ、1日6300回虚空蔵菩薩さまのご真言を唱える日々が始まりました。
この行を始めたのは2017.04.28です。

100万回をもって虚空蔵菩薩さまの行は満行とし、稲荷さまの行に専念したいと考えています。
…と、ようやく先日師僧に申し上げました。

そのお返事
『そうか。100万回唱えたら、君のなかに答えが見つかると思うぞ。頑張りなさい』
ハイ。

4月の終わりに行に入ってからというもの、自分の集中力のなさにあきれる日々でした。
少しやっては時計を見、少しやっては他のことを考え…。
ようやく気持ちが整い始めたら、今度は舌がもつれる。

そして睡魔と疲労のダブルパンチで、気が付いたら口が全く関係のないことを叫び出す…。
「オレンジジュースが飲みたい!!」
自分で自分にびっくりです。

またある時は、途中で気が付いたら違う真言を一生懸命唱えていることに( ゚д゚)ハッ!と気付く。

真言の意味も調べました。
どんな観想をするのかも教えて頂きました。

ただ、最初の数カ月間は、ただただ、自分の中を整えるというか、集中力をつけること、忍耐力を養う事。
それが目的になっていたような気がします。

ただ、集中力に欠けていたとは言え、最初の初々しい頃には様々な感応現象もありました。
たぶん過去記事に書いていたと思います。

この感応現象も良し悪しというか、不思議を求めるようになってしまうと本末転倒という事も身に染みてわかりました。
昨日、仏さまと通じ合えたような瞬間があったから、またあれを体験したい。
そうしたら霊感が身につくのでは?といったような期待をすると、何のための行なのか、誰のための行なのか。といったことを見失いかねません。

そうしたものは、結果的に後からついてくるものではないでしょうか。

どんなものでも、ある体験を通して自分が何を感じたのか。何を考えたのか。何を學んだのか。
何を得ようとしたのか(これは積極的な意味があります。経や真言の意味を自分で研究する。対象の仏さまについて學ぶなどの努力が付随しますから)が大切ではないでしょうか。

単なる行マニアに陥るのではなく、このさせて頂く行という時間の中に、いかに多くの學びの種を見つけ出すか。
自分の生き方や精神的な成長に役立てていくのか。

それが本来のありかたではないかと思うのです。


自分が自分に。あるいは誰かから『それやって何になるの?なんか変わった?』と聞かれたときに、即答できる何かをつかみましたか?

私は最初の数百日目を過ぎて、時間の感覚、捉え方が変わった。という答えに辿りつきました。
何か目標に向かって前進するとき、「まだ先が長い。先が見えない」と思うと、気持ちが萎れることがあります。

けれど、自分の目標と到達点とを俯瞰でみたとき、出発点-自分が今いる位置-到達点を分析してみることに置き換えられたのです。
「昨日の私はここだったけれど、今日の私はここまで前進した」というように。

誰かが褒めてくれたり認めてくれたりすることで、自己価値、自己評価を高めることも勿論重要です。
しかし、自分で自分を評価出来れば、おのずと自分自身の軸がしっかりしてくるのではないでしょうか。

私がこの虚空蔵菩薩さまの行から得たのは、現時点ではこのような答えとなっております。
さて、大晦日。私はどんなことを最終的に學ぶのか…。

未来の自分が少し楽しみです。



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by masumi-inari | 2017-10-29 19:00 | 眞澄稲荷便り