2017年 10月 10日 ( 1 )

心の転身

永作師僧より 勧進のお願い

院主より、勧進のお願いを致します。

このたび、赤不動明王院では、ご本尊さまである赤不動明王尊の尊剣、
並び護摩壇法具を謹製させて頂く運びとなりました。

不動尊剣は刃渡り80cm、全長1mを越える豪剣であります。

皆様の御厚意を賜われば幸いであります。
これはお願いであり、決して強制ではございません。

ご寄進くださったみなさま方へは、宝剣にて特別祈祷をさせて頂く所存でございます。

金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


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【赤不動明王院】 勧進のお願い

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人は満足の中では、何も考え様とはしないで在ろう。
その逆に窮地に陥ったり、苦境に遭遇した時に初めて考えるで在ろう。

では、苦境、窮地に陥った時に改善出来る人は何人いるだろうか?
今思えば私の人生は、苦境と窮地の連続だった。
希望が実現したと安心すれば破綻し、しあわせな家庭生活も死の訪れに依り崩壊。
失意をこれでも可と云うほど味わって来たが、変わらない事が一つある。
それは信仰心である。

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何度も死を考え、自分と向き合い、それでも涙を拭い仕事に向かう働く事は生きる為であり、当たり前の事である。
だが、失意の内にある時に生きる為に働く事の辛さを体験した時、人は様々な思いに翻弄されやすい。

生きる意味を失い彷徨う時、人は死を考える。
そんな時に多いのが憑依である。

自殺した方の言葉を聞く時、異口同音に答えられるのは『何故死んだかわからない』である。

正に死ぬ氣などなかったのである。
では何故、自殺したのか?
引き込まれ現象である。

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引き込まれは、誰にでも起こります。
例えば、失意の内にある人が死にたいと考え彷徨う時、心の隙間に入り込んで来るのが憑依である。
死にたい、死ねるかな?死ねる。に変わるのが憑依の実態である。

しかし、恐れる必要などありません。
正しい信仰心を確立していれば、そんな低級霊に翻弄される事などありません。

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何故ならば、明日を怯えて迎えるより、自身から明日に飛び込み、希望を実現する為に生きる事が重要である。
失意、絶望の中からは何も生まれません。
心の転身を果たし、明日に羽ばたく姿を想像する時、あなたの人生は変わります。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝

自分の人生の舵取りを他人に預けている生き方(依存的な生き方)をしている人は、意識の切り替えが不得手のように感じます。
誰かが~してくれるだろう。~してくれるはず。~してくれて当然。
という、ぼんやりとした他人の好意をあてにして生きている限り、軸はブレブレです。

そんな人が肩透かしをくえば、たちまち自分の足で立っていられなくなってしまいます。
自分というものをもって生きているつもりであっても、この世は苦に満ちていて、経験を積めば、良い仲間に恵まれていれば、あらゆる危険や悲しみから無縁になるという訳ではありません。

自分の想像を超えたような苦しみや痛みの種類が、年を取るごと増えていく…というのが実際の処ではないでしょうか。
ですから、自分の思い通りにならない場面に直面したとき、取り乱したり、他人を恨んだり、誰かに取り縋って一方的に自分の面倒を見てもらおうと躍起になるのではなく、自制心が必要となります。

その自制心、そして正しい行動、正しい考えを培うために、學ぶ元が「信仰」です。
信仰とは、「これさえしていれば大丈夫」という保証を与えてくれるものではありません。
様々な教えの引き出しを、自分から開けて(これが學ぶということ)、考え、身に着け、行動に移す。
きわめて能動的な行為です。

これをもって、信仰を持つことが心の弱さであるという人がいたら、その人はまさに學びとは何かをご存じない方であると言えるでしょう。

辛いときに「自死」という崖に飛び込むのではなく、「まだ来ていない未来の自分の可能性」に飛び込む勇気を与えてくれるもの。
それが信仰であり、學びです。

あなたは破滅の崖に飛び込みますか?それとも自分の可能性に飛び込みますか?

今日もありがとうございます

感謝合掌
後藤慈優





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by masumi-inari | 2017-10-10 06:00 | 赤不動明王院便り