2017年 09月 29日 ( 1 )

祈り

永作師僧より 勧進のお願い

院主より、勧進のお願いを致します。

このたび、赤不動明王院では、ご本尊さまである赤不動明王尊の尊剣、
並び護摩壇法具を謹製させて頂く運びとなりました。

不動尊剣は刃渡り80cm、全長1mを越える豪剣であります。

皆様の御厚意を賜われば幸いであります。
これはお願いであり、決して強制ではございません。

ご寄進くださったみなさま方へは、宝剣にて特別祈祷をさせて頂く所存でございます。

金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


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【赤不動明王院】 勧進のお願い

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人は祈りの中に身を置く時、安らぎを覚えます。
何故、人間は祈りの中にある時に安らぎを覚えるのか?
其れは、人の中に仏性があるからです。

本来、どんな人であっても仏性を持っていますが、それに氣付かず終わる人も少なくありません。


仏性(ぶっしょう)とは
仏の性質・本性のことで、主に『涅槃経』で説かれる大乗仏教独特の教理である。
覚性(かくしょう)とも訳される。
また『法華経』では、仏種(ぶっしゅ)「仏に成る種」、『勝鬘経』では、如来蔵(にょらいぞう)などと、さまざまな表現がされるが、基本的に仏性と同じ意義である。

仏教では、この仏性を開発(かいほつ)し自由自在に発揮することで、煩悩が残された状態であっても全ての苦しみに煩わされることなく、また他の衆生の苦しみをも救っていける境涯を開くことができるとされる。
この仏性が顕現し有効に活用されている状態を成仏と呼び、仏法修行の究極の目的とされている。


≪三因仏性≫

『大般涅槃経』獅子吼(ししく)菩薩品(ぼさつほん)に説かれるものを智顗が整合し確立した、成仏のための3つの要素を三因仏性という。

正因仏性(しょういんぶっしょう) - 本性としてもとから具わっている仏性のこと
了因仏性(りょういんぶっしょう) - 仏性を照らし出す智慧や、その智慧によって 発露(ほつろ)した仏性のこと
縁因仏性(えんいんぶっしょう) - 智慧として発露するための縁となる善なる行いのこと

Wikipediaより

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六道が有るように《六道輪廻》様々な経験を積み重ね、人間として成長します。
祈りは魂を磨き、悪事は魂を穢します。
魂を磨く事に専念して行動を考え、理性に生きる時、人は優しくなれます。

その逆に悪に喜び、悪心に支配される時、人は人でありながら人では無くなります。
騙す事を喜び、奪うことに快感を覚え繰り返すうちに、魂は穢れ、もう後戻りは出来無い。

その原因を作り上げたのは自分であり、他の誰でも無いのである。

六道(ろくどう、りくどう)とは
仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の苦しみに満ちた世界のこと。

・天道
天道は天人が住まう世界である。
天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。
また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。
しかしながら煩悩から解き放たれておらず、仏教に出会うこともないため解脱も出来ない。
天人が死を迎えるときは5つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。

・人間道
人間道は人間が住む世界である。
四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。
また、唯一自力で仏教に出会える世界であり、解脱し仏になりうるという救いもある。

・修羅道
修羅道は阿修羅の住まう世界である。
修羅は終始戦い、争うとされる。
苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。

・畜生道
畜生道は牛馬など畜生の世界である。
ほとんど本能ばかりで生きており、使役されるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。
他から畜養(蓄養)されるもの、すなわち畜生である。

・餓鬼道
餓鬼道は餓鬼の世界である。
餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。
旧暦7月15日の施餓鬼はこの餓鬼を救うために行われる。

・地獄道
地獄道は罪を償わせるための世界である。

Wikipediaより

人間は、肉体のある内は中々悟れ無いが、肉体は仮の姿であり本質は魂である、と悟ることで人生は大きく変化します。

死んでしまえば終わりだとお考えの方は、そのままお通り下さい。

生きるとは何か?
死とは何か?
とお考えの方は、私の友である。

如何に生き、如何に學ぶか。
これが人生の命題なのです。

光陰矢の如し。
長い人生と思った時、後ろを振り返ってみればわかります。
過ぎた過去は短く、未来は誰にもわから無い。

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わからないから、寸暇を惜しんで學ぶのです。
解っていることを再度學ぶのは復習。
わからないから、學びを進め深める事が大切なのです。

私達は自由であり、學ぶも學ばざるも自由である。
選択をするのは、あなた自身しかないこれが自由選択である。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝
空海の著『秘蔵宝鑰』の中に、すべての人の中には仏になる種があるにも関わらず、自分の愚かなふるまいのせいで、その種を焼き滅ぼしていることに気付かない人が多い。とあります。

自分の中の種を芽吹かせるためには、次の三段階が不可欠です。
仏さまの智慧に出会う。
その智慧に自分が触れて學ぶ。
その學びを、自分の行いを通して実践すること。

そのためには優れた師、素直な心、共に研鑽出来る仲間の存在が必要ではないでしょうか。
人は學びを通して人と繋がり、人を通じて祈りに出合います。
自分の事だけを考えていれば、仏と自分、師と自分の二者だけで事足りますが、それだけでは人としての度量は深く広くならない気がします。

自分が自分が。
もっと、もっと。

そうした執着の見苦しさや、人を蹴落として良い目を見ようという浅ましさ…。

そうしたものに気付かせ、改めさせてくれるのは、自分以外の為に祈る事が出来る他者との出会いに他ならないのではないでしょうか。

置かれた場所で咲きなさい。という言葉があります。
それは、「自分のいる境遇を諦めて受け入れろ」という屈辱的で後ろ向きな諦めの言葉などではありません。
「自分のいる環境そのもの、丸ごとが自分にとって一番ふさわしい學びの種である」という、非常に積極的な意味だと私は解釈しています。

私自身は、誰かと人生を取り換えてほしいとも思いませんし、他の人に自分の人生を味わってほしいとも思ったことがありません。
『なぜ自分だけが…。と思う事があるでしょう?』という問いかけをされることもよくありますが、正直にいってその言葉はピンときません。
よほど鈍いのでしょうか?

自分自身でさえ、判断がつかない日常の中に私は生きています。
ただ、それを後悔や不満で終わらせないためには何が出来るか?を考えることで精いっぱいだからです。

今日もありがとうございます

感謝合掌
後藤慈優

空海「秘蔵宝鑰」 こころの底を知る手引き ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫)

空海/角川学芸出版

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by masumi-inari | 2017-09-29 06:00 | 赤不動明王院便り