2017年 08月 24日 ( 3 )

アイロンを掛けました

昨日、松江のイオン内にある手芸屋さんへ行って、朱色の布地を購入してきました。
これは自坊の壇に敷くものです。

もうじき待ちに待った銀天さまがいらっしゃる予定なので、用意をば。

ちなみにこの布、中高生が体育祭で使うようなブロード地です。
紅組とか緑組とかの応援の時に、おそろいの衣装を作ったりしませんでしたか?
みなさま、一度はあのような時に使ったご経験がおありだと思います。

赤系統の布は何種類もあったのですが、なるべく明るくて鳥居などの朱色に近いものがいいなぁ…と考えて探しました。
するとぴったりの色合いのものが、180cm残っていました。

ラッキー。
レジに持って行き「全部買います」と言ったところ、更にラッキーなことがありました。
店員さんが『もうこれでこの布は終わりだし、シワシワになってるから170cmで計算して割引してあげますよ』と。

ふふふ。ツイてます。

確かに強靭な折皺(笑)だったので、霧吹きをしながら、2回、3回とアイロンを掛けました。
それさえすれば、何の問題もない新しい綺麗な布です。

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じゃーん。
いかがでしょうか。

壇は、カラーボックス2つと、妹が大学時代にテレビを載せていたサイドボードを使用しました。
この上から布を掛ければ、たちまち祭壇の出来上がりです。

カラーボックスの下にしている方は、私が子供の頃から使っているくたびれたもの(笑)
新たに購入したのは、ホームセンターで、家具のクリアランスセールが始まった初日に購入。

しかも…。
値段がついていない完成品だったのですが、閉店15分前に入って店員さんを捕まえました。
『これもセール対象商品ですか?。おいくらでしょうか。これを買いたいです』
グイグイ、しかしのんびりとした口調でお尋ね申し上げました。

すると店員さん。
何故か自分の方から『いや、これは…。うーん。相当長く店頭に置きっぱなしにしていたもので…。ココとココが剥げていたり、ココが少し日に当たって変色しているので…。え?本当にこれを?…そうですね…もう半額でいいですよ』とどんどんサービスしてくださいました。

私は徒歩で来ていたので、配達を希望。
すると、配達料が勿体ないと。

でも、歩いて持って帰れる距離ではないので配送希望。

会員カードを出すと、ポイントがたまっているので実質無料でボックスが手に入りました。
しかも配送料もポイントでまかなえたのです。
バンザーイ。

きっとこれも稲荷さまのお力です♪

壇も敷布も全部合わせて867円也(布地代のみ)
先日は、尼僧の友人が線香と銀磨きと豆菓子を送ってくれました。
キャンドルアーティストの亜希子さんからも、キャンドルを作っていて出来た余りを使ったキャンドルをまたくださるそうです。

貧乏行者に風が吹いてきましたぜ~(^^♪
ありがたいありがたい。

日々これ感謝です。
みなさんに幸あれ💖



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by masumi-inari | 2017-08-24 16:00 | 眞澄稲荷便り
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毎日のお勤めに欠かせないものは、水・酒・飲食等の他に「灯り」があります。
これは仏さまと自分との時間を、穏やかに、そして大切にするという気持ちになる為に不可欠です。

そして、行に入っている人間にとっては、応援団のように感じます。
何十回、何百回、何千回とご真言を唱えていると、気が散ったり、疲れたり、足がしびれたり、様々な雑念から集中力が途切れたりします。
眠気やだるさ、怠け心などに負けそうになることもあります。

でも、そんなときに優しく揺らめく炎を見ていると、それがどんなに小さい灯りであれ、「一緒に頑張ろう」と励ましてくれているように思えてきます。

何のために自分がそれをしているのか?と思い出させてくれるようにも感じます。

日々のお勤めに、行に、灯りをともしましょう。
祭壇の雰囲気も全く変わってきますよ。

眞澄では空気を浄化してくれると言われている、ソイワックスキャンドル(天然の大豆油で作った蝋燭)をお分け致しております。
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再利用もできるので、楽しいですよ。


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by masumi-inari | 2017-08-24 11:00 | 眞澄稲荷便り

母の愛

永作師僧より 勧進のお願い

院主より、勧進のお願いを致します。

このたび、赤不動明王院では、ご本尊さまである赤不動明王尊の尊剣、
並び護摩壇法具を謹製させて頂く運びとなりました。

不動尊剣は刃渡り80cm、全長1mを越える豪剣であります。

皆様の御厚意を賜われば幸いであります。
これはお願いであり、決して強制ではございません。

ご寄進くださったみなさま方へは、宝剣にて特別祈祷をさせて頂く所存でございます。

金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


↓詳しくはこちらの記事をご覧ください↓
【赤不動明王院】 勧進のお願い


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御本尊様を頼り、毎日、様々なご相談が御座います。
その中でも特に胸を打たれるのが母の愛である。

昨今は、そんな母の愛を裏切る様な振る舞いが多く見受けられます。
真面目に生きれば必ずや大成したで在ろう人生。
家族と寄り添い、家族を護れば護られた人生。
大学に行かせて頂いたのに遊び呆け転落する人生。
全て自己責任である。

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しかし母の愛は、いつまでも我が子を愛し続けて居るのです。
涙しながら、我が子を迎えに行く母の後ろ姿を見て、笑える人はい無いで在ろう。

今、振り返り母の愛を想う時、人は優しさを思い出すで在ろう。
母のいない人は存在しない。
思い出の中に居ないだけである。

悪事をはたらく時、母の愛を思い出し自らを見れば、自身の醜さに驚愕するで在ろう。
しかし、我が子を思わない母はいない。

以下は戦時中、戦火の中にあっても息子を思い続けた母の話しである。

岸壁の母
第二次世界大戦後、ソ連による抑留から解放され、引揚船で帰ってくる息子の帰りを待つ母親をマスコミ等が取り上げた呼称。
その一人である端野いせをモデルとして流行歌の楽曲、映画作品のタイトルともなった。

流行歌、映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせ(1899年9月15日 - 1981年7月1日)。

明治32年(1899年)9月15日、石川県羽咋郡富来町(現在の志賀町)に生まれ、函館に青函連絡船乗組みの夫端野清松、娘とともに居住していたが、昭和5年(1930年)頃夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京する。

新二は立教大学を中退し、高等商船学校を目指すが、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍石頭予備士官学校に入学、同年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明となる。

終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立つ。

昭和29年(1954年)9月には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書(舞鶴引揚記念館に保存)を発行。

しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926年 - )は戦後も生存していたとされる。
それが明らかになったのは、母の没後、平成12年(2000年)8月のことであった。

ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。
妻子をもうけていた。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。

理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。
新二を発見した慰霊墓参団のメンバーは平成8年(1996年)以降、3度会ったが、新二は「自分は死んだことになっており、今さら帰れない」と帰国を拒んだという。

旧満州(現中国東北部)の関東軍陸軍石頭(せきとう)予備士官学校の第13期生で構成される「石頭五・四会」会長・斉藤寅雄は「あのひどい戦いで生きているはずがない」と証言し、同会の公式見解では「新二君は八月十三日、夜陰に乗じて敵戦車を肉薄攻撃、その際玉砕戦死しました」と述べられている(北國新聞社平成18年(2006年)10月4日)。

端野いせは新人物往来社から「未帰還兵の母」を発表。
昭和51年9月以降は高齢と病のため、通院しながらも和裁を続け生計をたてる。息子の生存を信じながらも昭和56年(1981年)7月1日午前3時55分に享年81で死去。「新二が帰ってきたら、私の手作りのものを一番に食べさせてやりたい」と入院中も話し、一瞬たりとも新二のことを忘れたことがなかったことを、病院を見舞った二葉百合子が証言している。

平成12年(2000年)8月に慰霊墓参団のメンバーが、新二が上海市で生存していたことを確認。
京都新聞が新二の生存を報道。
中国政府発行、端野新二名義の身分証明書を確認。
だが、その人物が本当に新二であるかについてはいまだに疑問がある。
平成15年文藝春秋に「『岸壁の母』49年目の新証言」が掲載。

遠く離れた島で戦う息子を思い、母は毎日、祈りました《あの子の命が救われるのであれば、私はどうなっても構いません》
そう祈り続けて居たある晩のこと、深夜に母は立ち上がり叫んだ《手を離したらいかん!》
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その時、息子さんは敵兵に追われ、崖にぶら下がり身を隠して居たのである。
しかし、手は痺れ、精根尽き掛けた時、お母さんの声が聞こえたのです。
《手を離したらいかん!》

ハッと我に返り、崖を登り、見た時には敵兵は去った後でした。

やがて終戦。
日本に帰国し、親子は涙の再会を果たし、その後、息子さんはお母さんに聞いてみました。
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お母さん僕は、戦地でお母さんの声に助けられて帰って来れたのだよ。
お母さんは恥ずかしそうに言いました。

我が子を思わない親など、どこの世界にも居るもんかね。
私はお前が危ないと思ったから叫んだんだよ。

その後、親子は仲良く暮らしました。

南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝

母のいない人は存在しない。
思い出の中に居ないだけである。

師僧のこの言葉はとても重いです。
たとえ生き別れで実の母を知らなくても、母という存在なくして自分は生まれてきていません。

そして母とは、立派な子供であろうとも、道を踏み誤り、行き詰まった子供であったとしても、愛することをやめない存在。
たとえ愛し方がわからない。と母親自身が苦しんだとしても、ある時は執着として表れたとしても、それは思いの力の出し方がわからなくなっているに過ぎない。
と私は思います。

反抗期、両親の存在が疎ましくなる時期があります。
自分のことを認めてくれない、わかってくれない、否定ばかりする。
だから自分の口惜しさや苛立ちをわからせてやるんだ。という幼い未熟な感情から、荒っぽい行動に出ることがあります。

そんなとき、父母の悲しむ顔、困った顔、激しく怒る姿を引き出すことで、私たちは甘え、愛情を確認しようとしたことはなかったでしょうか。
強いつながりを確認したくて、求め方が間違ってしまう時期があります。

でも、子どもから大人になる段階で、それはきちんと向き合って昇華する課題のひとつでもあります。
そうできずに煩悶するすべての「子供」に、平等に訪れるチャンスがあります。
それは、親の老いと病です。
現代はモラトリアム社会とされていますが、親の老いと病は、いわば強制的な現代の元服なのではなかろうかと私は思います。

喩え身体的にへその緒が切れたとしても、母と子の間には終生、見えないへその緒が存在しているのではないでしょうか。
生まれくるまえ、母から生きる力をもらったへその緒。
大人になったいま、自分から母へ安心を与えられるよう、心の栄養を我が内に蓄えようではありませんか。

感謝合掌
後藤慈優



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by masumi-inari | 2017-08-24 06:00 | 赤不動明王院便り