2017年 08月 03日 ( 2 )

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香十徳という漢詩の中に「常用無障」という一文があります。
常用しても害がない。という意味です。

確かに最高級の老山白檀は、季節が移り行くなか、毎日焚き続けても害はありませんでした。
そればかりか、昨日もきいた香りでありながら、日々の天気や湿度、時間帯によって新しい表情を見せてくれました。
仏さまやご先祖さまと、このありがたい薫香を分かちあう時間を頂戴できたことが何よりも嬉しく、また心慰められたのです。


思考における怠惰と学びの違いについて私は思います。

怠惰とは、ある事象に際して考え方のクセにはまって思考停止してしまうこと。
学びとは、それを様々な角度から見て分析すること。
ではないかと。

優れた香りは、様々な表情を見せてくれました。
そしてどんなものからも、自分なりの哲学を持てるように思考を展開させてくれる懐の深さがあると知りました。

願わくば、私が作り出す香りもそうしたものでありたいです。

追伸。つい最近読んだ僧侶の方のブログで「自分が小僧のとき、師僧から香炉は仏の口だと考えなさい」と教わった。とありました。
はっとしました。


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by masumi-inari | 2017-08-03 12:00 | 薫香と祈りの研究所

慈愛

永作師僧より 勧進のお願い

院主より、勧進のお願いを致します。

このたび、赤不動明王院では、ご本尊さまである赤不動明王尊の尊剣、
並び護摩壇法具を謹製させて頂く運びとなりました。

不動尊剣は刃渡り80cm、全長1mを越える豪剣であります。

皆様の御厚意を賜われば幸いであります。
これはお願いであり、決して強制ではございません。

ご寄進くださったみなさま方へは、宝剣にて特別祈祷をさせて頂く所存でございます。

金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝


↓詳しくはこちらの記事をご覧ください↓
【赤不動明王院】 勧進のお願い

ある一組のご夫婦は、愛し愛され結婚。
その結婚生活は、正に夫婦愛そのものでした。

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やがて二人の間に神仏の加護があり、お子さんが授かりました。
二人は子供の将来を夢見て語り合い、どうかこの子が丈夫に育ちます様にと願いを込めました。

しかし、運命は過酷でした。
一年後、奥さんは癌を患い他界されました。

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ご主人は嘆き悲しみ、生きる気力を失い掛けた時、私の相談室に御本人からお話しがありました。

私は誠心誠意、対応させて頂きました。
御本人は納得され、今は、亡き奥さんの忘れ形見であるお子さんと毎日を力強く生きておられます。
私は込めて祈ります。
この親子に幸多かれと。

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以下は、今昔物語の一節であります。

ある村に真面目な青年が居りました。
青年には心に秘めた女性が居りますが、村や近隣で評判の美人で気立ての良い娘であります。
青年は諦められず、悶々としながらも仕事に汗を流して居りました。

村祭りの夜、青年は意を決して女性に告白しました。
そして見事に返事を貰いました《あなたの妻にして下さい》

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青年は天に昇る様な喜びである。
そして婚礼。
青年は男になり、前以上に働き妻を大切にしました。

そして瞬く間に一年が過ぎた頃、妻は流行り病を冒され死んでしまいました。

男は嘆き悲しみ仕事も手に付きません。
毎日、毎夜、考えるのは美しい妻の事ばかり。
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ある夜、男は如何しても妻に逢いたい気持ちが抑えられず、気がつけば妻の墓の前。
男は夢中で妻の墓を掘り起こしました。

棺桶の蓋が見えた時、男は我にかえりましたが、美しい妻に逢いたい気持ちが抑えきれず、棺桶の蓋を開けてしまいました。

そして、美しい妻の顔を見た瞬間、ぅわ〜と声を上げ驚きました。
あの美人の妻とは似ても似つかぬ姿に、男はその場に尻餅を付き、涙しました。

腐り果てた妻の亡骸を見て、男はこの世の無情を感じ、その足で寺に入り、出家して修行の道に入りました。
そして雲水に成り、諸国を行脚し、妻の菩提を終生祈り続けたそうであります。
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南無大日大聖不動明王尊
蓮華合掌
金剛山赤不動明王院 院主永作優三輝

およそ世の中に「絶対」も「永遠」も「不変」も存在しません。
しかし、それほどまでに揺るぎない事実を、私たちは見過ごし、また認めようとしたがりません。

今日が最後の日であるかのように過ごすとき、それは濃度の高いものとなります。
師僧がいつも言う「込め」た状態です。

今日が最初で最後だと思えば、後から後悔することのないように、最善を尽くそうと思うでしょう。

昔読んだ本にこんな一節がありました。

一流のスポーツ選手は練習をしない。

日々たゆまぬ練習、訓練があってこその勝利ではないのか?
もって生まれた才能、そしてチャンスで一流が一流であるとでもいうのか?

と、訝しみながら、答えを求めて読み進めました。

そこにはこのような記述が待っていました。

「一流の人間は、その一瞬一瞬を、(これは所詮練習だからと自分に甘えを許さず、)本番だと思って全力を出す。いわば本番思考で生きているのだ」

本番の積み重ねで勝負に挑むから、勝利があるのです。
もちろん破れるときもありますが。

剣術書『剣談』に名言があります。
「勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし」と。
負ける時には必ず分析の上、反省すべき点があるので「まぐれ負け」というものは存在しないという意味です。

込める。真剣に生きる。全力を出す。
その結果は完全燃焼であり、未練は残りません。

未練があるとき、自分は何かやり残したことがあり、十分ではないと分っているのに手抜きをしていたり、他人に過度に期待したり、依存したりしていたという事実があるはずです。

加えて近しい人間関係においては、愛着・執着から自由になり切ることは難しいと言わざるを得ないでしょう。
今日と同じような明日が来て、幸せが続き、自分が相手を愛するように、相手も自分を愛し続ける。
そんな期待なしに、愛を育まない人はいないのではないでしょうか。

信じ切っている相手を裏切れないのは、大切にしようと思うのは、相手の中に自分の想いを見出すからかもしれません。
だからこそ、別れの苦しさは深いのでしょう。

困難に全力で立ち向かう時の心構えと、人を愛する気持ちとは一概に同列に並べ置けないものかもしれません。
ただ、生き別れ、死に別れを問わず、別れの時に自分の存在ごと崩壊しないようにするためには、やはり「今日という日が最後であるように」正直に、そして丁寧に気持ちを重ねていくことに尽きるのではないかと思う私です。

今日もありがとうございます

感謝合掌
後藤慈優




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by masumi-inari | 2017-08-03 06:00 | 赤不動明王院便り